寺田 寅彦 作 どんぐり読み手:齊藤 雅美(2024年) |
もう何年前になるか思い出せぬが日は覚えている。暮れもおし詰まった二十六日の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天の縁日へ出かけた。十時過ぎに帰って来て、袂からおみやげの金鍔と焼き栗を出して余のノートを読んでいる机のすみへそっとのせて、便所へはいったがやがて出て来て青い顔をして机のそばへすわると同時に急に咳をして血を吐いた。驚いたのは当人ばかりではない、その時余の顔に全く血のけがなくなったのを見て、いっそう気を落としたとこれはあとで話した。
あくる日下女が薬取りから帰ると急に暇をくれと言い出した。このへんは物騒で、お使いに出るときっといやないたずらをされますので、どうも恐ろしくて不気味で勤まりませぬと妙な事を言う・・・