芥川 龍之介 作 忘れられぬ印象読み手:中川 万莉奈(2019年) |
伊香保の事を書けと云ふ命令である。が、遺憾ながら伊香保へは、高等学校時代に友だちと二人で、赤城山と妙義山へ登つた序に、ちよいと一晩泊つた事があるだけなんだから、麗々しく書いて御眼にかける程の事は何もない。第一どんな町で、どんな湯があつたか、それさへもう忘れてしまつた。唯、朧げに覚えてゐるのは、山に蔓る若葉の中を電車でむやみに上つて行つた事だけである。それから何とか云ふ宿屋へとまつたら、隣座敷に立派な紳士が泊り合せてゐて、その人が又非常に湯が好きだつたものだから、あくる日は朝から六度も一しよに風呂へ行つた・・・