寺田 寅彦 作 さまよえるユダヤ人の手記より読み手:成 文佳(2020年) |
一 涼しさと暑さ
この夏は毎日のように実験室で油の蒸餾の番人をして暮らした。昔の武士の中の変人達が酷暑の時候にドテラを着込んで火鉢を囲んで寒い寒いと云ったという話があるが、暑中に烈火の前に立って油の煮えるのを見るのは実は案外に爽快なものである。
暑い時に風呂に行って背中から熱い湯を浴びると、やはり「涼しい」とかなりよく似た感覚がある。あれも同じわけであろう。
涼しいというのは温度の低いということとは意味が違う。暑いという前提があって、それに特殊な条件が加わって始めて涼しさが成立するのである・・・