永井 荷風 作 蟲の聲読み手:横山 宜夫(2020年) |
東京の町に生れて、そして幾十年といふ長い月日をこゝに送つた………。
今日まで日々の生活について、何のめづらしさをも懷しさをも感じさせなかつた物の音や物の色が、月日の過ぎゆくうちにいつともなく一ツ一ツ消去つて、遂に二度とふたゝび見ることも聞くこともできないと云ふことが、はつきり意識せられる時が來る。すると、こゝに初めて綿々として盡きない情緒が湧起つて來る――別れて後むかしの戀を思返すやうな心持である。
ふけそめる夏の夜に橋板を踏む下駄の音。油紙で張つた雨傘に門の時雨のはら/\と降りかゝる響。夕月をかすめて啼過る雁の聲。短夜の夢にふと聞く時鳥の聲・・・