新美 南吉 作 耳読み手:入江 安希子(2021年) |
一
ある晩、久助君は風呂にはいつてゐた。晩といつても、田舎で風呂にはいるのは暗くなつてからである。風呂といつても、田舎の風呂は、五右衛門風呂といふ、ひとりしかはいれない桶のやうな風呂である。
久助君は、つまらなさうに、じやばじやばと音をさせてはいつてゐた。風呂の中でハモニカを吹くことと歌をうたふことは、このあひだおとうさんから、かたく禁じられてしまつたのである。「風呂の中でハモニカを吹いたり、鼻歌をうたつたりするやうなもんは、きつとうちの屋台骨をまげるやうになる」とおとうさんはいつた。久助君は加平君ところの牛小屋が、いぜん、だんだん傾いて来て、壁が蛙の腹のやうに外側にふくれ、とうとうある日つぶれてしまつたのをよく知つてゐたので、自分の家があんな風になるのはかなはないと思つて、ハモニカも歌もやめてしまつたのであつた・・・