坂口 安吾 作 山の貴婦人読み手:齋藤 こまり(2022年) |
上州、信濃、越後、丁度三国の国境のあたりに客の希な温泉がある。私の泊つた宿には、県知事閣下御腰懸けのイスといふのが大切に保存されてゐて、村の共同湯に出没する人々にはドブチンスキーやボブチンスキーの面影があつた。近い停車場へも十数里の距離があつて、東京の客なぞ登山の季節にも滅多に来ない。単調で奇も変もない山国の風趣が気にいつて、私は暫く泊ることにした。
ある日、宿の亭主がもみ手をしながらはいつてきたが、
「わし共は田舎者のことで、はや一向何事も存じませんが……」
亭主は臆病な眼付で私を見凝めて口籠つてゐた・・・