芥川 龍之介 作 十円札読み手:つかさ(2022年) |
ある曇った初夏の朝、堀川保吉は悄然とプラットフォオムの石段を登って行った。と云っても格別大したことではない。彼はただズボンのポケットの底に六十何銭しか金のないことを不愉快に思っていたのである。
当時の堀川保吉はいつも金に困っていた。英吉利語を教える報酬は僅かに月額六十円である。片手間に書いている小説は「中央公論」に載った時さえ、九十銭以上になったことはない。もっとも一月五円の間代に一食五十銭の食料の払いはそれだけでも確かに間に合って行った。のみならず彼の洒落れるよりもむしろ己惚れるのを愛していたことは、――少くともその経済的意味を重んじていたことは事実である。しかし本を読まなければならぬ。埃及の煙草も吸わなければならぬ。音楽会の椅子にも坐らなければならぬ。友だちの顔も見なければならぬ・・・