田山 録弥 作 春読み手:横山 宜夫(2022年) |
春といふと、曾て紀州にあそんだ時のことが思ひ出されて来た。あそこは潮流の関係で、春の来ることが早く、伊勢あたりはまだやつと梅の花が散つた頃なのに、そこでは山桜が咲きみだれ、夏蜜柑が黄熟し、菜の花が黄く、蛙の声が到るところに湧くやうきこえた。
それに、そこは水蒸気が多く、樹々の緑の色にも、他に見ることの出来ない艶があつて、いかにも春が濃であるといふやうな気がした。私は降りしきる雨を衝いて、時には渓流の絶壁高く白く咲いてゐる花を仰いだり、時には大きく暗い瀑の畔に明るくあらはれてゐる花を眺めたり、・・・