山本 周五郎 作 夜の蝶読み手:滝川 ゆきえ(2022年) |
一
本所亀沢町の掘割に面した百坪ばかりの空地に、毎晩「貝屋」という軒提灯をかかげた屋台店が出る。貝を肴に酒を飲ませるのと、盛りのいいぶっかけ飯が自慢で、かなり遠い町内にも名が知られていた。
車屋台のまわりを葭簀で囲い、その中に白木の飯台と腰掛が置いてある。屋台の鍋前にも腰掛があり、そこにも三人くらいは掛けられるから、客のたて混むときには十二、三人は入ることができた。――掘割の向うは公儀の御米蔵で、堀沿いにずっと土塀が延びているし、うしろは佐渡屋、丸伍、京伝などという大きな問屋が並んでいる。もちろん、みんな板塀の裏手が見えるだけで、夜になると燈も漏れず、あたりはひっそりと暗くなる・・・